logosとzoe

logosとzoe

「ヨハネによる福音書」
1:1 En arkhēi ēn ho logos, kai ho logos ēn pros ton theon, kai theos ēn ho logos.

最初のエン・アルケー・エーン・ホ・ロゴスを英訳するとIn the beginning was the Wordらしくて、それを日本語に直訳すると「はじめに言葉ありき」になるわけですけれど、「ヨハネによる福音書」によればこのロゴスという神的存在はのちに受肉しイエス・キリストとなって世に現れた、ということらしい。キリスト教っていう宗教自体にはあんまり興味ないんですが、聖書の言葉は意味を色々と考えるのが楽しい。
果たしてロゴスは言葉なのか。この文章の続きは調べてもらったら分かると思うんですが、ウィキペディア先生の言葉を引用しますと
”アルケーとして(=「はじめに」あるいは「根源的原理として」)ロゴスがいた。ロゴスは神とともにおり、ロゴスは神であった。このお方(=ロゴス)は神とともにいた。すべてのものは彼(=ロゴス)を通して存在するようになり、彼(=ロゴス)なしで存在するようになったものは無い。”
となっています。1:1〜1:3かな?
ギリシャ語の直訳は「言葉」のほかに「意味」とか「論理」とかありますから、個人的には「論理」といいますか、「全ての根源のその理屈」と考えるのも好きです。アルケー、つまり世界の根源的原理こそロゴスであり、ロゴスこそイエス・キリストであり、ロゴスであるイエス・キリストはまたテロス、つまり終わりでもある。そのロゴスが言葉であるなら、言葉を操るものはイエス・キリストなり得る、全てのアルケーそしてテロスになり得る。だからこそ我々は言葉を用いることについて思考を止めてはいけないと強く思うのです。
そして1:3に続いて

1:4 en aftó zoí ín, kaí i zoí ín tó fós tón anthrópon.
1:5 kaí tó fós en tí skotía faínei, kaí i skotía aftó ou katélaven.

ロゴスによって存在するようになったものの中に命があり、命は光であり、光は闇の中にあって闇は光に打ち勝たない。
っていう部分についてはZoeの絵を描きました。ゾーイは命です。…ゾーイであってんか?ゾーエーっていうんかな…わ、わからん…

なんかこう創造主としてのるきちゃんっていう人間について考えていて、ロゴスでありイエスであり、そしてアルケーでテロスである、そして命を、闇の中に光を生み出すっていうここの訳が、何回も読んでいてとてもぴったりだなって思ったんだけれども。そしたらどうしても破滅的イメージが湧いてしまう。私の中で、神はとても受動的で、破滅的で、サディストなものであるので、それがまたイメージにぴったり合致してしまう。
このロゴスは、命は、光は、果たして誰が生んだのか?多くの、不特定多数の、限定されない、それを意図的に望んだものと、望んだことにも気づかぬもの、目に見えないはっきりとこれと言えないものではあるけれども、確実にそれを望んだ大勢の誰かの手によって生み出された存在なのであり、そこに意思があったとしてその意思はロゴス自身の意思なのだろうか?けれどそもそもロゴスが「言葉」なら、それ自身に意思などないように、ロゴスには意思などあり得るはずがないのである。
そんなこと考えてたらこんな絵になりました。
この冒頭が非常に好きなんですが、聖書のことはちゃんと学んでいないので後はよく知りません。オワリ

スマホのアプリでフィルターかけて遊んでたら楽しくなっちゃった…。
アプリっていいよねなんかいい感じの加工がサッとできて。

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